南仏の冬は長く、春は遅い。
それでも、3月ともなれば日脚が伸びて夜明けは輝きを増し、日陰の黒とのコントラストがくっきりと
浮かび上がる。
明け方の空はオレンジからピンクへと段々に彩りを変え、肌を射るような冷たい風も心なしか柔らかさを
纏うころ。
アーモンドの白い花が綻び始めた。
もう、春だ。

早朝から活気付いたマルシェを、一人ゆっくりと見て回る。
まだ充分寒い季節なのに、もう春の訪れを感じてか店先に並ぶ道具も様変わりした。
狩猟用の道具や煙突掃除用具は姿を消し、代わりに古式ゆかしい農機具や花苗・野菜類、それに目にも
鮮やかな皿やカトラリー類がマルシェに溢れる。
カフェのテーブルも舗道にはみ出るほど並べられ、気温より早く人々が“春”を歓待してはしゃいでいる様が
見て取れた。
「ボンジュールサンジ、いいズッキーニが入ってるよ」
「サンジ、調子はどうだい?」
すでに顔馴染みになった店主達から、次々と声を掛けられる。
ここの人々は総じて人懐っこく、溢れんばかりの善意の塊だ。
最初はその迫力と馴れ馴れしさに圧倒されたが、適度な距離の置き方を自分で見つけてからは居心地の
よい場所に変わった。
強い南部訛りもどうにか聞き取れるようになったし、勤務する店にはパリから移って来た同僚も多いから
下手に訛りに染まる恐れもない。
いつまでも異邦人の立場で、この優しい風土の中にそれとなく溶け込み暮らす穏やかな日々を過ごしている。

眺めるだけと思いながらマルシェに足を運んで、気が付けば大量に食材を買い込んでしまっているのも
いつものことだ。
両手一杯の紙袋を見かねて、一緒に運んでやるよとのありがたい申し出が複数の農夫からあったが、
すべて丁重に断った。
働き者で頑丈なレディ達に賛辞の言葉を投げかけ、もうすっかり陽が高くなり抜けるような青空が続く道を、
鼻歌を歌いながらゆっくりと歩く。
両手は荷物でふさがっていても、特に不自由はない。
ただ家までの道のりをまっすぐに歩いていくだけ。

なだらかな丘陵には葡萄畑とオリーブやクルミの木が立ち並び、少しずつ違う葉の色や枝振りが綺麗な
グラデーションを作っている。
一角には桜園もあって、もう少し暖かくなれば花見も楽しめるだろう。
道端に繁る草はハーブで、風向きが変わる度ほのかな香りが立ち昇る。
未舗装の道路をてくてくと歩めば、その突き当りにある石造りの古いバスティドが愛しい我が家だ。
ささやかな庭はあるものの、家の裏も表もその横からも見渡せる広大な葡萄畑のすべてが庭だと言ってし
まっても間違いではない。
古い農家を葡萄畑付きで買い取って、一緒に住もうと言い出したのはゾロだ。
二人でこの家の下見に来て、サンジもひと目で気に入りその場で即決。
慌しく引越しを済ませ、まだ改修工事も必要な古い家屋ながら、住めば都のごとく快適な我が家として
暮らしている。

ゾロが転職した先は、化粧品会社だった。
南仏に支店を構え、特産のハーブを使って香料や石鹸などを作っている。
ゾロはサンジの性感帯以外にも色々な分野で鼻が利くらしく、目下のところ、天然タラシ能力を農家の
奥さん相手に遺憾なく発揮しているらしい。
葡萄畑を買い取ると漏れなく農夫達もついてくるが、彼らとの交渉やワイン会社の経営能力にも長けて
いるらしく、本当は化粧品会社を辞めてもここでなら充分生計を立てていけるんだとこっそり教えてくれた。
ゆくゆくは葡萄畑の真ん中に小さな店を作って、ワインの直売とサンジが腕を揮うビストロを経営するつもりだとも。

小さなエントランスを抜けて、サーモンピンクの壁に濃いグリーンに塗られた雨戸がぴっちりと閉められて
いる窓の横を通り過ぎる。
窓辺に飾られたゼラニウムは朝日を浴びて生き生きと輝いているのに、部屋の主はまだ夢の中のようだ。
よく磨かれたテーブルの上にマルシェでの収穫物を置いて、まだ温かいパンはパヌチエールに仕舞う。
家具はどれも重厚な造りで、一度据え付ければそう簡単に模様替えできないほど重い。
そんなテーブルや戸棚を、この家に越してきた初日にゾロは難なく一人で担ぎ上げてあちこちに配置した。
手伝いに集まってくれた村人達は、そんなゾロを見て一斉に歓声を上げ、呆れているのか感心しているのか
わからないジェスチャーで褒め称えた。
鍛えられた逞しい筋肉を持っているとは言え、こっちの人々の体型に比べたらスレンダーとも言えるゾロが、
軽々と重い家具を一人で運ぶのは誰が見ても奇異に映るだろう。
サンジもさすがに「すげえな」と素直に褒めたら、ちょっとだけ笑って見せた。
ゾロ曰く、家具にも呼吸があるのだという。
見て貰いたい角度、置いて欲しい場所がわかれば、家具は持ち運びしやすいようにその身を軽くすることが
できるのだと大真面目な顔で説かれ、サンジはびっくりした。
それ以来、皿の配置やツボの向きに気を配って、少しでも対象物に気に入られるよう努力をして入る。
そんなサンジを眺めながら、ゾロが一人笑いを噛み殺しているのは内緒だ。





「ボンジュール」
雨戸まで締め切られた暗い寝室に、足を踏み入れる。
カーテンを引いて窓を開け、雨戸を外した。
途端、明るい日差しが部屋の中に降り注ぐ。
巨大なダブルベッドの中央で、掛け布団を抱き締めるようにして横向きに眠る恋人の裸の背中にも、風に
揺れる樹々の葉陰が映った。

「もう昼だぞ、起きろ」
声を掛けてもぴくりともしない。
元々寝起きが悪いから、本気で起こすなら蹴り飛ばしてベッドから落とすしかないだろう。
けれど今日は休日だ。
折角なら優しくゆっくりと起こしてやりたい。
サンジは仕方ないなと嘆息して、靴を脱いだ。
どうしても室内で靴履きには慣れなくて、すぐに靴も靴下も脱いでしまいたくなるタイプだ。
裸足になってベッドの上に膝を着き、広い背中に手を掛けた。
「起きろよ、飯にしようぜ」
買って来たパンにコンフィチュールをたっぷり塗って、ゆで野菜にはアイオリを添えて。
ズッキーニはオリーブオイルで炒めて、ベイクドトマトも作ろうか。
そんなことを考えながら、一向に動かない恋人の背中に張り付くように潜り込む。

「こらー起きろよ」
甘えた声を出して、滑らかな背中にかぷりと噛み付いた。
まったく反応がない。
サンジは唇を尖らせて、肩を乗り越えるように上から圧し掛かった。
「起―きーろー」
シーツに押し付けられた端整な横顔は取り澄ましたまま、安らかな寝息を立てている。
「・・・マジ寝?」
ここまで熟睡してるなら起こすのも可哀想かなと仏心を出した途端、背後から肩をがしっと掴まれた。
くるりと視界が反転して、気が付けばゾロの下に組み敷かれている。
「なんでー?」
ぽかんと見上げれば、してやったりと悪戯っぽく笑うゾロが真上にいた。
得意気なのに、寝癖がついたままなのがおかしい。
「この狸寝入り」
「遅えぞ」
寝たふりしたまま、起こしに来るのをずっと待ってたのか。
そう思うとおかしいやら可愛らしいやらで、怒る気が失せる。

「起きたんなら窓くらい開けろ、せっかくの春だ」
「まだ寒いだろ」
肌が冷たいと、頬や首筋を撫でられた。
確かに、今の今まで眠っていたゾロの掌は吃驚するほど熱くて心地が良かった。
その手に撫でられるだけで、体温が2,3度上昇してしまう。
「こんなに冷えて」
「あーちょっと待て」
サンジの身体を温める以外の目的を持ってシャツの中に滑り込んできた手を、両手でがしっと止める。
「まずは起きろ、朝飯だっての」
「飯よりお前がいい」
「いやいやいや、もうお天道様高いか・・・ら」
歯が浮くような甘い台詞も、しっとりとした夜の闇に包まれている時なら抵抗なく受け入れられるが、さすがに
こんな健全な日差しが降り注ぐ室内で囁かれてはさすがにテレが先に立つ。
なのにゾロはそんなサンジにお構いなしで、文句を言いかけた唇を塞いだ。
濃厚な口付けをたっぷりと施され、いつの間にかなし崩しに流されていく。
「ふ・・・」
ちゅ、と湿った音を立てながら何度も角度を変えて口付けを繰り返し、サンジは甘い鼻息を漏らした。
明るかろうが暗かろうが、どうせすることは同じだ。
誰も見てないしとか思ったら、急に恥ずかしい記憶が蘇った。

最初にゾロとこんなことをしてしまった時は、誰も見てないどころか不特定多数の人々の目に晒されてしまった。
あれは今でも有効なのだろうか。
どこの誰ともつかぬ人々の部屋でもしくはお茶の間で、今も上映されているのだろうか。
「――――ん」
ゾロの手が、きゅっとサンジの股間を掴んだ。
びくんと身体を震わせて、キスから逃れる。
「ダメだって」
「何がダメだ。硬くなってんぞ」
うっかり思い出して勃ってしまったなんて、消え入りたいほどに恥ずかしい。
「明日まで、オフだろ」
鼻先にちゅっとキスされて、サンジは赤い顔のまま頷いた。
今月は二人の休日が重なったから、久しぶりにゆっくりできるのだ。
朝からいちゃついても許されるだろう。





すべてを捨て去ったつもりで南仏に渡って3ヶ月。
吹きすさぶミストラルより尚寒い寂寞の想いを抱きながらも、サンジはひたすら料理の修業に打ち込んでいた。
兄弟子達の厳しい指導や叱咤、時には嫌がらせにも笑顔で耐えた。
自分に残された道は、もうこれしかないと思ったから。
生きる場所はここしかないと、決めていたから。
一番辛かったのは、修業よりも一人で過ごす時間だった。
少しでも忙しさに間が空けば、嫌でも日本でのことを思い出してしまう。
恥辱と後悔に満ちた数ヶ月だったはずなのに、何故か胸に浮かぶのはゾロのことばかりで。
しっとりと熱を帯びた掌だったり、獲物を咀嚼するような目つきだったり酷薄に映る微かな笑みだったり。
何一ついい思い出なんかないといくら自分に言い聞かせても、いつだって胸が熱くなって身体の芯が疼いた。

変えられたのは、身体だけじゃなかった。
むしろ心の全てを奪い取られ、ぽっかりと空いた穴にミストラルより厳しい北風が吹き抜けるばかりで。
抜け殻だったのだと思う。
生きる道を得ながら中身も何もない、空っぽの再出発。
それでも歯を食いしばって生き抜いてきたはずなのに、突然のゾロの出現で空いていたはずの穴が瞬時に
埋まってしまった。
すべてが満たされ、景色は輝きを帯びた。
今、ゾロと共にフランスの空を見上げても初めてこの土地に足を踏み入れた頃の色と、どこかが違う。
以前と変わらぬのどかな風景一つが、こんなにも煌いて眩しく見えるなんて。
季節としての春が訪れただけじゃないと、我ながらあまりの単純さに自嘲するしかない。

「どうした?」
ゾロは笑いながら、カリっとサンジの耳朶を噛んだ。
悦楽に集中していないのがお見通しなのだろう。
けれどそんなことで怒ったりはしない。
むしろサンジの反応の全てを、興味深く見て楽しんでいる。
ゾロとの交歓は快楽に堕ち過ぎて止め処がないから、週に一度の休みの日だけと決めている。
それでも毎回サンジを天国に連れて行ってくれて、日本で慣らされた以上に身体と心を満たしてくれた。
もうサンジの身体は、まるでゾロという刀身を納めるための鞘になったみたいだ。
挿れられて入る時が一番キモチイイ。
サンジはゾロの唇を追って頤を上げ、軽く啄ばむように口付けた。
「幸せだなあって、思って」
身体もだけど、心が強く。
そう言えば、サンジの中に深く沈んだゾロが一際大きくなった。
言葉で肌で内側で心で、すべてを感じることができるのがとても嬉しくて幸せだ。


ゾロが、婚約寸前まで行ったあの美しい恋人と別れて会社も辞めたと聞いて、驚きのあまり倒れそうになった。
何もかもが、サンジの理解の範疇を超えている。
そこまでしてゾロが追って来る理由が見つからないし、ゾロを失ったあの人のことも会社のことも気がかりだ。
ゾロは、自分になんて固執するべき人間じゃないのに。
けれどそれはサンジの理屈であって、ゾロの側ではそうではないと強硬に説得され、最後は身体で説き伏せられた。
すごく嬉しいと素直に甘えらえるようになったのも、ごく最近からの話だ。
自分の弱さが、色んな人を傷つけたとサンジは今でもそのことだけは悔やんでいる。
けれどゾロと出会えたことだけは後悔していない。
ゾロもそうだと言っているから。





明るい陽光の下で口に出すのも憚られるほど濃密な時間を過ごし、ようやく朝食にありつけたのは午後を回って
からだった。
でもここの時間は本当にゆっくりと流れているから、多少生活リズムが崩れたって気が咎めない。
規則正しい生活に拘って、愛し合う時間を蔑ろにする方がよほど罪深い土地柄だ。
遅い朝食を二人で取りながら取りとめもないことを話していたら、玄関から誰か呼ぶ声が聞こえた。
ゾロが席を立って用件を聞きに行き、サンジはテーブルに着いたままそれとなく聞き耳を立てていた。
知り合いならば勝手に家の中に入ってくるだろうし、農夫達は休日にこの家には立ち入らない。
それがお互いのためだと、もう充分わかっている。

しばらくして、ゾロが大きな箱を抱えて戻ってきた。
懐かしい日本の宅配会社のロゴマークに、サンジは自然と表情を綻ばせた。
「なにそれ」
「お前宛だぞ」
ここの住所を知らせてあるのはゼフかウソップしかいない。
誰だろうと送り状を見れば、見知らぬ人の名前があった。
「ポートガス・D・エース?・・・誰だろ」
「Aだ」
すかさず応えられ、懐かしい名前にああ!と思わず声を上げた。
「A?Aってそんな立派な名前があったの?」
「あるだろ」
噴き出したゾロの前で、サンジはさっそくガムテープを引き剥がし始めた。
「Aがなんだってオレの場所わかったんだろ。相変わらず謎な奴だなあ」

厳重に封印してある箱の蓋を開ければ、ひらりと小さな封筒が舞い落ちた。
Dear Sanji From“A”with loveとか書かれている。
中には、バースデーカードが入っていた。
「あ、俺の誕生日」
「くそ、俺より早くおめでとうを言いやがったな」
悔しがっているゾロも、どうやら今日がサンジの誕生日だと知っていたらしい。
サンジ自身、忘れていたというのに。
「なんでAが俺の誕生日知ってんだよ。つかゾロも?」
「ああ、出遅れた感は否めないが。おめでとう」
そう言ってぎゅっと抱き締め、キスをしてきた。
顔一杯に祝福を受けながら、サンジは顔をくしゃくしゃにして笑った。
「もう、お前からおめでとうはいっぱい貰ったよ」
頭の先から爪先まで、身体の中から奥まで全部。

ちゅうと音を立ててひとしきりキスを交わしてから、放ったらかされた箱の中身へと戻る。
「んで、これはAからのバースデープレゼントなのかな?」
箱の中に更に厳重に梱包されたテープを剥がすと、なにやら見慣れたパッケージが目に飛び込んできた。
「・・・え」
思わず手を止めて固まったサンジの肩越しに、ゾロがひょいと中を覗く。
「お」
箱の中身は―――

Rose全4巻+特典映像+写真集+収録に使用された小道具+衣装+スポンサーから提供された玩具etc・・・


「おお!」
「んぎゃあああああああ」



のどかな南仏の葡萄畑に囲まれた小さな農家から歓声と悲鳴が響きわたっても、誰も気付きはしないのだ。




Fin






a la provencale